自分の人生を生きる
朝から晩まで、当たり前のように誰もがふれる、テレビや新聞、インターネットからの様々な情報。
「テレビでこんなこと言ってたよ」
「新聞では、こう書いてあったけど?」
「テレビや新聞に騙されちゃいけない。ネットで調べると裏がわかるぞ」
現代社会では、殆どの人が社会に関心を持ち、様々な出来事や動向に興味を引かれ、多大な時間をメディアとの付き合いに費やす。
瓦版から新聞、ラジオ、テレビ、インターネット……と、時代と共に様々なメディアが登場する中で、人間の、個としての時間は大きく減り、“社会”が一人一人の生活に深く入り込んできた。今や、社会に興味関心を持たず、何も知らないのは、無知であり、不勉強であり、非常識な悪いことであるかのように捉えられるのが、すっかり普通になっている。
誰もが同じ情報を共有し、同じ“常識”を持ち、同じ“正しさ”に沿って生きることが、圧倒的多数の人々の間で当たり前なことになっている。
メディアが今日ほど発達していなかった時代———
人間ははるかに生きていた。
誰もがはるかに個性的だった。
すなわち、誰もが自分自身だった。
考えること、感じることは、その殆どが己の実体験に関わるもので、人がそれをどう思おうと、何を言おうと、少なくとも本人にとっては、事実は常に明らかで疑いようもなく、その一つ一つを、ただリアルに実感し、考え、悩み、笑い、泣き……それが人生だった。人は誰のものでもない、自分自身の生を謳歌していたのだ。
それが今や、朝から晩まで、メディアの流す情報に多かれ少なかれ誰もが晒される。家にいるときはもとより外出先まで、多くの人がスマホを通じ、メディアからの情報をチェックする。もはや、我々は日がな一日メディアに依存し、それ無しではいられない中毒にすらなっている。
そこで途切れることなく受け取る情報たるや、本当か嘘かは誰にもわからない。どこの誰がどうしてどんな意図や事情で送ったものか、本当のところはよくわからないし、殆ど考えようともしない。
そして、そうしたメディアからの情報の大半は、一人一人の個人にとって、まったく不要なものばかりなのだ。
こんな状況で、我々は自分自身の生活を無くす。個人的でリアルな体験よりも、世界や社会の情報にどっぷり漬かる。我々が受け取るのは、単なる出来事や情報だけではない。様々な識者や出演者、専門家の、意見や感想という形で、ものの見方や考え方まで頂戴する。
そんなものは本来、まったく無用なのだ。百人いれば百通りの感じ方があり、そのどれもが正解だ。千人いれば千の意見があり、そのどれもが正しい。
本来、そういうものなのだ。人間はそれぞれがみんな違い、例外なく個性的なのだ。その個性を生きるのが人生であり、笑いも涙もみんな違うし、みんなその人だけのものだ。
そして実は、唯一の正解というもの自体が、そもそも幻想だ。
違う町で違う両親から生まれ、違う環境で育ち、体質も性格も違い、読む本も出会う人も違い、食べるものも違えば、日毎のコンディションも全部違う。そんな人間同士が、同じように感じ、同じように考え、同じ見方や価値観を持って、同じように行動するというのは、自然に反した異常なことなのだ。
本当は、「正しい行動」や「正しい生き方」など、誰からも強要されることなく、時々喧嘩したり、わかり合ったりしながら、賑やかに生きていくのが人間なのだ。
人間は本来、もっと強く、もっと柔らかく、もっと深く、もっと愛おしく、もっと生き生きとした素晴らしい生命だ。
木や花に様々な種類があり、その一本一本、一輪一輪が異なっているように、人間も、一人一人がその人自身の姿で、のびのびと生きる存在なのだ。
生き生きとしている人は、例外なく個性的で、人生にくたびれた人の多くが画一的で無個性なのはそのためだ。
時にはメディアから離れてみる。
喧騒を離れ、スマホの電源をオフにして、一人で空を見る。海を見る。道端の草花を見る。
そして、じっと自分の鼓動に耳をすます。
あなたは、あなたの人生を生きているのだ。