人生の呼吸
呼吸は生命の営み。
息を吸い、息を吐く。
「吸って……吐いて……また吸って……また吐いて……」
頭で考えて行うより、くつろぎ、身体に任せておく方が、ずっとスムーズでいい呼吸ができる。いつどのように吸おうか、考える必要などない。呼気が終われば自然に吸気が始まり、吸気が終われば自然に呼気が始まる。
実はこの呼吸というものは、身体に留まらず、この世界すべての本質的な営みだ。仕事、お金、人間関係、すべては呼吸なのだ。
何事も、入っては出て、出ては入る。始まったものは終わり、終われば次が始まる。すべては自然のサイクルのままに、出入りを繰り返す。その流れを妨げなければ、すべては健康に営まれ、人生の呼吸は順調。新陳代謝が正常に行われ、日々はいつも新鮮で、落ち着きと活力を併せ持ったものになる。
ところが、我々は、この“人生の呼吸”が、とても苦手だ。身体の呼吸と同じく、自然に任せておけばいいものを、わざわざ思考が介入しては、あれこれ予想し、いじり回し、混乱を引き起こす。あたかも、思考がすべてを動かすことができ、またしっかり考えて動かさなくては人生は上手くいかないとでも信じ込んでいるかのようだ。
しかし、人生の本質は生命活動そのもの。我々は頭である以前に、自然であり生命なのだ。進路選択や仕事から、恋愛や人づきあい、結婚や子育てにいたるまで、人生での様々な経験すべてが生命活動の一環なのだ。到底、頭が独立して好き勝手に操作できるような死んだものではない。
そして、我々の頭は、取り込み、留め、ため込むことは大好きだが、出すこと、手放すこと、新たなものを迎えることはひどく渋り、恐れさえする。
慣れた仕事や環境は変えたくないし、一度得た地位や評価は失いたくない。お金を得るのは大好きだが、使ってなくなるのは惜しくて怖くて仕方がない。友達や恋人との別れは悲しくて耐えられず、しがみつく。
しかし何事も、手放さなければ、新たなものは得られず、新たなものとは出会えない。古いもの、終わったもの、鮮度を失ったものにしがみついていると、生は日に日に淀み、腐り、干からびていく。
そもそも、手放すことは喪失ではない。新たな経験、環境、仲間、パートナーと出会うためにスペースを空けることであり、未知なる刺激、喜び、生きがいへといざなう、成長と発展の扉なのだ。
人生は呼吸。
吸ってばかりで吐くことがなければ、人は窒息して死んでしまう。大体、吸ったままで吐かずにいたところで、それ以上、新たな空気を吸えるわけではない。「もっと!もっと!」と頑張ってみても、苦しくなるばかりだ。もし恐れを捨てて、息を吐いて見れば実に楽。そして、必ず自然に、新たな空気を吸うことができる。
人生も同じ。手に入れた物や金をため込むばかりで使うことを惜しんでいては、ちっとも楽しくない。そうなると財産はもはや恵みではなく、失うのが怖くて仕方がない重荷になってくる。
せっかく得た仕事や地位、友達や恋人、夫や妻も、それを失うのを恐れてしがみついていれば、喜びや刺激は日々色褪せ、風化し、人生は悔いや恨みに染まった、退屈なものになる。
しかし、執着や束縛をすることなく、変わるものは変わり、離れるものは離れるに任せていれば、必ず居場所も関係性も、自然な流れに乗って、あるべきものがやって来て、あるべきところにその都度落ち着く。想像もしなかった嬉しい出会いや、楽しく刺激に満ちた経験や出来事が人生に運ばれてくる。
心身を整え、自然に任せ、頭で邪魔さえしなければ、生命は、必ず代謝を繰り返し、人を豊かに健やかに成長させるようになっている。
感謝とともに過去を吐き切り、喜びとともに新たな今を吸いこもう。