パーソナリティーという檻 アイデンティティーという妄想
人は皆、名前を持たずに生まれる。
生まれた赤ん坊自身は、どこの誰でもない。ただ、外界から様々な刺激を受け、自分の身の内に様々なエネルギーを感じ、それをそのまま表現する。泣き、叫び、悶え、飲み、出し、くつろぎ、笑い、眠る。そこにはいかなる恣意もない。ただシンプルな生命の運動がそのままに現れる。
そんな赤ん坊に、親や周囲は名前を付ける。みんなにとって、赤ん坊は〇〇家の〇〇君、〇〇ちゃんであり、長男だったり次女だったり末っ子だったりする。赤ん坊はさらに、お隣りやお向かいの家に生まれた〇〇さんちの赤ちゃんとして認識され、その国、その都道府県や市町村に、〇年〇月〇日に生まれた新生児として、名前と共に登録される。
こんなことがすべて、赤ん坊自身の知らないところで行われる。そして、赤ん坊は、授かった名前や愛称、あだ名で呼ばれ、育っていく。
やがて、赤ん坊は赤ん坊でなくなっていく。自分を〇〇くん、〇〇ちゃんと自覚し、誰かの息子や娘、姉や弟、姪や甥なんだと理解していく。
そして、学校へ入ると「一年生」になり「男子」「女子」として区分され、進級や進学の度に、「三年生」「四年生」「中学生」「高校生」と、新たな立場に置かれていく。人と親しくなると、「友達」になり、恋が実れば「彼氏」や「彼女」、「恋人」や「パートナー」になる。仕事に就けば、「公務員」になったり「アーティスト」になったり「大学教授」になったり「花屋さん」になったり「飼育員」になったりする。会社に入れば「新入社員」から「係長」「部長」になり、様々な肩書が付いて回る。結婚すれば、「夫」や「妻」、子供が生まれれば「親」「父」「母」、長生きすれば「祖父」「祖母」になる。こうして家庭の内でも外でも、絶えることなくありとあらゆる立場と名前を、ずっとずっと生きて生きて生きて……死を迎える。
赤ん坊はどこへ行ってしまったのだろう?
果たして、何者が数十年の人生を生きたのだろう?
そもそも、本当に生きたのだろうか?
生まれた時、何者でもなかった我々は、人生の折々でふと立ち止まり、自分に問う。
「自分は何者なんだろう?」
そして、周囲から与えられた言葉を手掛かりに、自分を鼓舞し歩き続ける。
長男なんだからしっかりしなきゃ。高校生なんだからしっかりしなきゃ。大人なんだからしっかりしなきゃ。……しっかり? しっかりって何? わからないまま、身近な生活からメディアにいたるまで、周りにいろんな言葉が始終飛び交う。
「男だろ?」「女のクセに」「所詮、男なんて」「所詮、女なんざ」「役人ってやつは」「インテリは」「政治家ってほんとに」「高校も出ていないやつは」「若いやつは」「年寄は」「夫の務め、妻の務め」「いい父、いい母」「毒親」「優等生」「問題児」……。
社会は常にすべての存在を何者なのか判断する。そして人は人を常に名づけ、色付けする。
周りの人々は、休むことなくあなたの名前や愛称を呼ぶ。「〇〇!」「〇〇さん」「〇〇君」「〇〇ちゃん!」……。そしてあなたを「優しい人」「すごい人」「暗い奴」「つまらない人」「面白い奴」「素敵な人」と様々に認識する。
もういい、もういい! 自分は何者でもないんだ。何かの役割でも肩書でもないんだ。
あなたはどこかでわかっている。あなたが何者かを規定する“パーソナリティー”とは、あなたを閉じ込める檻なのだ。
「では、自分とは何者なのか?」
あなたは、お仕着せのパーソナリティーを演じることにげんなりしながらも、というより、そのことへの反動もあって、一層、自分を支えるあなた独自の定義を探す。“アイデンティティー”というやつだ。
自分だけの経験、実績、誇れる成果や資格、様々な体験や武勇伝、失敗談、そうした自分を説明する材料で、あなたは自分を捉えようとする。さらには、自分の性格や特徴、能力も材料となる。「俺は頭がいい」「私は美人」「私は太っている」「僕は気が弱い」「俺はモテる」「私は真面目だ」「あたしは気まぐれだ」……。
そうしたものが常にあなたの“自分”を作り、あなたはその中に落ち着こうとする。
しかし、こんなものは何一つ、あなたそのものとは関係もない。ただのゴタク、ガラクタだ。アイデンティティーなどなくても一向にかまわない。そんなものがなくてもあなたは崩れない。それが必要だというのは刷り込みだ。完全なる妄想なのだ。
あなたの本質は、ただそこに息づく生命だ。それは、生まれた時からちっとも変わらない。
あなたには生まれた時とまったく同じ、生命のエネルギーが流れている。快も不快も、喜びも悲しみも、高揚もくつろぎも、すべてある。あらゆる色、あらゆる調べ、あらゆる温度のエネルギーがあなたをめぐる。それがあなたを生かしている。
あなたが出会う様々な人々、様々な経験は、何もあなたを規定しないし、限定しない。それは、あなたが、自分そのものであるその命を生きるため、味わい活用するおもちゃなのだ。そのおもちゃの無限の彩りが、あなたの人生を豊かにする。子供がおもちゃで一心に遊ぶように、あなたはあらゆる出会い、あらゆる経験をただ思いきり遊べばいいのだ。
しかし、あなたはおもちゃで遊ぶのではなく、おもちゃの中に自分を規定し、閉じ込めようとしてしまう。つまり、何者かであろうとし、それを支えるアイデンティティーという説明を探し続けるのだ。
が、もう一度言う。あなたの本質は生命だ。生命とは無限の可能性であり、無限の表現だ。輪郭もないし、限界もない。定義も規定も把握もできようはずがない。それはほとんど、宇宙とは何かを認識しようとすることに等しいのだ。
そんな生命を、特定のパーソナリティーに縛り付けたり、アイデンティティーで語ろうとすること自体、異常で見当違いなことなのだ。
あなたは、自分とは何の関係もない型に自分を閉じ込め、する必要もない説明を探している。苦しくなるのは当たり前だ。
あなたは、赤ん坊のままだ。やることの本質は同じだ。
ただ、人生の豊かな経験によって、より豊かに多彩に、泣き、笑い、くつろぎ、眠ればいい。
「自分は何者なのか?」 何者でなくてもよい。そして、何者でもない。
あなたは生きる。ただ、燃える命なのだ。