いつも、そこに人間がいる
やや混みあった電車に、新築マンションのプラカード、そしてチラシを持った二人が乗り込んできた。不動産会社の先輩、後輩らしい。後輩と思しき若者は、この日、初めてプラカードを持って街頭に立つらしく、先輩からあれこれ指示を受けている。マスク越しではあるが緊張した面持ちなのがわかる。
程なくして二人は目当ての駅に着いたらしい。ドアが開くと、若者は、先輩から「よし、行こう」と声を掛けられ降車していった。
もし、この若者が駅前でチラシを配っていても、我々は殆ど目にも留めないだろう。そして、手渡されるチラシにもろくに注意を向けず、行き過ぎるだろう。若者は、単に街の風景の一部であり、寒風の中、彼がどんな思いでそこに立っているのかに思いを巡らせることはない。まして彼の人生など知る由もない。
時々行くカフェでランチ。席に座ると、初めてみる女の子が注文を取りに来た。まだ最近入ったばかりらしい。言葉も不慣れで動作もたどたどしいが、笑顔で一生懸命だ。ランチタイムで次々にやってくる客に一人で対応しなくてはならず、せわしなく店内を行き来している。向かいのテーブルの中年男性は、既に注文済の食後のドリンクを彼女が再度確認に来たことに苛立ち、「コーヒー」と不愛想に返す。右手に座った若いカップルの彼氏の方が、ランチメニューをうまく言えない女の子の口真似をして彼女を笑わせている。
日々、我々はたくさんの人と出会っている。何十、何百もの人と出会っている。しかし、それをことさら出会いとは捉えない。道行く人、バスの運転手、交通整理をする人、駅員、店員、工事現場で作業する人……。それをただの景色としてぼんやり感じるばかりで、もし何かで注意を向ける時も、相手を立場や職業で認識し、その人が生きた人間だということを忘れがちになる。
もちろん、我々が暮らすこの世界は、各人が持ち場を担い、貢献することで成り立っている。だが、店員と客が、互いをただ店員、客としかとらえず、要求と応答だけの関係になったら、何と殺伐として味気ないことだろう。
誰一人として、単なる役割や機能ではない。みんな、どこかで生まれ、様々な挑戦や挫折、たくさんの出会いや別れ、いろんなめぐり合わせを経て、今そこで働いている。そんな人間同士が多様な立場、多様な関係で出会うのだ。
すべての人は、自分自身がそうであるように、いろんな事情の中で、笑い、泣き、生々しい気持ちを抱えて日々を送っている。誰もが生きた人間だ。そこに笑顔があり、心があり、通い合うものがあるから、人が働き、共に生きる意味がある。
そうして、日々出会う名も知らぬ一人一人の生きた心に目を向けた時、世界は生気に溢れだす。
世界のいろいろな場所で、いろいろな人が、それぞれの朝を迎え、それぞれに出かける。そして、あなたの目の前に現れる。
我々は、互いの人生の、今日という日、今という時に、この場所で遭遇しているのだ。そして互いを見、言葉を交わし、関わり合う。
街中ばかりではない。学校や職場の仲間、そしてパートナーや家族。誰もが、人生のこの日、この時を生きている。
いつも、あなたの目の前には、人間がいるのだ。