鏡 ~世界は自分を映し出す~
髪型を整える。服装をチェックする。メイクする。
自分を整え、磨き、美しくする時、誰もが鏡を見る。そこに映る自分の姿が気に入らなければ、髪型を直す。服装を直す。メイクを直す。映った姿がイケてないからと言って、鏡に文句を言ったり、批判したりはしない。ましてや、そこに映った像を変えようと、鏡をいじったり引っかいたりすることはない。
我々の人生で、日々起きる様々な出来事、人の言動。目にするもの、耳にするもののすべては、自分自身を映し出す鏡だ。
嫌なことや気に入らないことがあったり、腹の立つことや傷つくことを言われたり。そんな時、我々は往々にして、「あんなの許せない」「あいつの行動はあり得ない」と、状況や他人を批判、非難する。
これは、実のところ、鏡に映った姿が気に入らないからと、鏡を非難したり叩いたりしているのに等しい。
人生で起きることに、一つの無駄も偶然もありはしない。楽しいことも苦しいことも、心地いいことも不快なことも、すべては自分を変化・拡大させ、次のステージに進めるために現象の形をとって顕れる。日々の出来事一つ一つを、いいとか悪いとか言うのは勝手だが、どう言おうとも起きることは起きる。すべては自分が成長するために必要な変化を促すサインなのだ。
それに気づき、出来事を自分の進化や変容のために活かせば、人生は新たな展開を見せる。そして自分の意識が拡大・成長すると、また新たなサインが現れ、さらにあなたを前にいざなう。
しかし、出来事や他人を非難したり裁いたりして、我がふりを一向に顧みようとしなければ、あなたの生には同じようなことが起き続ける。すなわち、人生は親切にも、我々が己のありように気づくまで、何度も何度も同じようなことを繰り返して見せてくれるのだ。それでも、自分のやり方や考え方に固執し、他人や状況を問題視し続ければ、物事はどんどん強烈な形で現れ、否が応でも我々自身に気づきと変化を促す。
身だしなみを整える時、人は鏡を使うことで、それなしでは見ることができない自分の姿を確認することができる。見えなかった髪型やメイクの乱れや粗に気づくことができる。
同様に、「現実」という鏡は、自分ではなかなか気づかないでいる、内面の隠れた思いや心を映し出す。鏡に映る像、すなわち出来事や人の言動をあれこれ分析したり批判したりするのではなく、それが自分のどんな姿を映し出しているのか、何を教えてくれているのかに注意を向け、素直に自分を見つめる時、あなたは、長年抑圧していた自分の欲求や、感じることを避けてきた未消化の感情の存在に気づく。それらは、自分のエネルギーが自由にのびのびと働くことを妨げ、充実した人生の実現を阻む枷となっている。
あなたがが他人を否定する時、多くの場合、その陰に、自分の抑圧された願望や、自分に課している制限が隠れている。
「あいつは、人の迷惑も考えず勝手なやつだ」
本当は、あなたも他人を気にせず、好きなことをやりたいのかもしれない。
「あんな風に楽して金を稼ぐのは、間違ってる」
苦労しないとお金を得てはいけないという考えが、あなたを貧しく苦しくしているのかもしれない。
また、あなたが他人から否定される時、そこには、自分で自分を縛ってきた無意識の枷や鎖がそのまま現れていることが多い。
「お前の考えは甘い」
「いい歳して、夢みたいなことばかり言ってるんじゃない」
それは実は自分自身の声なのではないか? その声が、これまでずっと心のどこかで響いてはいなかったか? その声が、あるがままの無邪気な自分の思いや夢を、分別臭く否定して可能性の芽を摘んできたのではないか? “常識”や“分別”をできない言い訳にして、巧みにごまかしてはこなかったか? そして、今も内心、そのことを悔しく悲しく感じているのではないか? 本当の思いはどうしたって捨てることなどできないのではないか?
嫌なこと、嫌な人は、自分自身の無意識の心が映し出された、鏡の中の像なのだ。
もう、鏡をなじったり叩いたり、割ってやろうと憤るのはやめるのだ。そして、そこに映った自分の乱れた姿に気づき、人生を整えるために使うのだ。
あなたは、ずいぶん自分を傷つけてきた。ずいぶん自分を邪魔してきた。ずいぶん自分を低く見積もりダメ出ししてきた。
そんな自分に気づく時、あなた自身を縛ってきた縄が落ちる。できるかできないか、なんてことは問題にすらならない。恐れも疑いも同時に落ちるからだ。もはや、他人の意見や周囲の目など、どうでもよくなる。批判も非難もあなたからは出てこない。人の世話など焼くよりも、この人生を、自分を拡大・成長させ、思いきり生きることに活かしたい。
遅すぎるということはない。それもまた一つのあなた自身を縛る縄なのだ。
本当のあなたは何一つ変わっていない。何一つ損なわれていない。何一つ失っていない。
鏡を鏡として活かす時、あなたは最高に美しく輝くのだ。