2020.05.16源庫

自分で生きる時代

かつて世界は熱かった。世の中が、時代が熱を持っていた。
人々は、その熱に温められて、おのずと情熱的に生きられた。
お金持ちになること、昭和の「三種の神器」に象徴される新しい電化製品を買うこと、マイカー、マイホーム、海外旅行…。それらは物質的な喜びであるのみならず、実際に心の幸せを感じられる精神的な喜びでもあった。
そして、世の中には、「額に汗して働く美徳」「人を思いやる真心」「燃えるような恋」があり、それらの価値はほとんど疑われることも吟味されることもなく、すんなり各個々人に染み入り、各々それを求めた。大切にした。
一方で、悪党は、本当に悪党だった。盗みも殺しも、その多くが、暗くとも強い欲望に突き動かされ、熱く犯されるものだった。
正義に燃える仮面ライダーVS世界征服を企むショッカーの図式は、一人一人の中の、善VS悪の図式の象徴であった。大多数の個人は、善悪や物事の価値について、自問することを免れ、気楽に単純に生きられたのだ。

翻って現代。
誰もがスマホを持ち、ネットで瞬時に膨大な情報に触れ、個人間の連絡から経済活動まで、あらゆる交渉がオンラインで交わされる今、世界は、均一にならされ、異常なまでに多様化し、あらゆる「価値」は間断なく相対化され、何がリアルで何がフェイクか、本当のところは誰にもわからないところまできている。
そんな中、善悪だけでなく、あらゆる価値は、不確かで、安心して拠って立つものなど何もなくなってしまった。人間は、かつてのように、当たり前に無自覚に寄りかかり、生きる指針とできるような価値の機軸を、もう社会からは与えてもらえない。

ここで人は二極化する。
外側の軸で生きる者と、自分の軸を打ち立てる者に。

外側に軸を求める者にとっては、困難な時代が到来している。
世論や組織の論理などというものは、元来、いい加減で無責任なものだが、その多様で気まぐれな質が、ますます早さと激しさの度を増している。今日の世間や組織、仲間うちの空気に従って、自分も発した言葉や行動は、明日には否定されるかもしれない。慌てて新たな空気に同調しても、また次の日には翻される。振り回されながら、それを「己の意見」とごまかし続けるには、あまりにも空しく馬鹿馬鹿しく、世間や集団、他者への不信、批判、非難の気持ちは否応なしに高まる。そして、その否定的な念は、いくらごまかしても潜在下で必ず自分にも向き、じわじわと世界も自分も嫌いになっていく。その末にあるのは、シラケ切ったシニシズムか、怨嗟、呪詛、後悔と空しさ、虚仮威しの人生だ。

自分の軸を打ち立てる者にとっては、パワーは必要だが、やりがいと面白みのある時代になってくる。
様々な情報や出来事にふれつつも、自分を動かすのは、常に、自分の衝動、欲求、感覚、手応えだ。それを軸として保ち続けるためには、必然的に、それを絶えず瑞々しく感じ、自覚すること、納得することが求められる。そのためには、いつもぼんやりしているのではなく、意識的であること、自分自身に気づいていることが鍵となる。
そうして、自然に形づくられてきた自分の軸から、すべての言葉や行動が立ち現れ始める。それは、日々、表現される中で、少なからず他者や世間とぶつかり、磨かれる。時に痛みに見舞われることもありながら、より強く自然で確かなものになっていく。

自分の心で感じ、自分の頭で考え、自分の足で歩く者が到達するのは、一言で集約するならば、結局、“一生懸命に生きること”である。人間が一個の生命体であり、大いなる宇宙、自然の一部であることを免れぬ以上、たどり着く究極の原理は“生きること”でしかあり得ない。
それを現代の我々は、時代から一定の形で自明のものとして刷り込まれるのではなく、錯綜し飽和した情報の海の中で、わざわざ意識的に自覚的に、つかみとらねばならない。
これは、星や山海、動物や植物からすれば、何とも馬鹿馬鹿しく面倒臭いことではあるが、ある意味、人間に与えられた、生の楽しみでもある。

現代は、往昔のように、世間や社会からの、熱くシンプルで安定した軸が与えられないがゆえに、無自覚な刷り込みや画一化から目覚めやすいチャンスの時代でもある。それでもなお常識や風潮、ルールに呑まれる者も多いだろう。しかし、多少なりとも目覚める者には、本当に頼れるのは己の生命から来る情熱や直感、確信のみ。一から自分で生きる軸を模索し打ち立てていけるこの状況は、一歩踏み出す毎に、自己発見と自己信頼に恵まれる、喜びに満ちたスリリングなものとなる。

すでにして生命であるのに、わざわざ奮闘して、生命に還る。

この回りくどい営みは、実は古来、人間の生の営みそのものであった。勇気さえあれば、それをより自由に楽しむのに持ってこいの時代、自分で生きる時代が到来しているのだ。