直感と思考
我々を動かすものが二つある。
直感と思考。
直感は降りてくる。我々は、それを紡ぎ出すことも構築することもできない。できるのはただ、準備すること。整えることのみ。そして、降りてきた時には、それがしかるべき形をとるまで、解釈や整理することで止めたり歪めたりしないことだ。
直感はいつも新しい。直感は自然だ。それは我々を未知へと連れていく。そして、成長、発展、変容にいざなう。直感に導かれ、生は彩りを増し、起伏に富んだ冒険となり、ますます新しく豊かな世界があらわれる。
思考は積み上げる。思考はつなぐ。その本質は、つぎはぎだ。思考それ自体には、何の意味もない、ただの言葉に過ぎない。それがつぎはぎされることで、あたかもそこに「論理的な意味」があるように思えるが、引いた視点でその像を見れば、確かに糸自体は途切れることなくつながっているが、複雑に曲がりくねってこんがらがった毛玉のようなもので、醜く不自然ながらくたでしかない。
思考は常に過去から来る。その材料は経験と知識に尽きる。我々はいくらでも思考を紡ぎ出し、どれだけでも複雑に構築することができる。というより、その運動に完全に呑み込まれ、抜け出せないと言った方が正しい。
思考は、本質的に人生を繰り返しで埋め尽くす。
ただし、思考そのものは悪でも何でもない。我々がそれを野放しにし、あるいは誤用しているだけなのだ。
思考の唯一の、そして本来の役割とは、自身の中に直感が降りてきた時、それを行動や伝達に移すために、輪郭を持たせ、青写真を描くことだ。
直感には、独自の自然な活力がある。それをこの物質世界で具現化するために、思考が得意とする、整理整頓の機能を存分に果たすのだ。
直感が宇宙すなわち生命の源からやってくるエネルギーなのに対し、思考はどこまでいっても道具に過ぎない。絶対に、直感が先、思考が後なのだ。
しかし、それが悩んだ時には逆転する。思考がでたらめに先走る。
苦しい時、悩んだ時、混乱した時には、時間の長短はどうあれ、絶対に安静が必要だ。それは1分かも知れないし、数日かも知れないが、闇雲に動き回る思考を静め、ただ、心身を休める。すると、ほどなく必ず直感が降りてくる。なぜだかわからないが、やるべきこと、やりたいことが降りてくる。
しかし、それが待てない。苦しい時ほど、休むことなく、次々に思考を紡ぐ。隙間ができるのがとにかく怖いのだ。そうして噴出した思考が、宇宙と自分の間に霧を張り、直感が降りてくる道をふさぐ。
邪魔しない。ただ空けておく。
直感が降りる。思考で整理する。行動が起きる。
ただそれだけ。それだけで、その人のみが味わえる、本来の豊かな生が展開するのだ。